島唄に込められた本当の意味を知って、30年来のもやもやが解けた話

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島唄のイントロやサビを聴けば誰しもが「知ってる」とか「あぁ、懐かしいよね」など、日本では馴染みの深い曲だと思います。

今回ふとしたことがきっかけでこの「島唄」の本当の意味を知ることになったのですが、それを知ったときに、色々な感情が自分の体の中に流れ込んでくるのが分かりました。

いまさら感はありますが、今回は「島唄」についてシェアしたいと思います。  

 「島唄」について

島唄という音楽だけが先行し、また世界中で多くの方々に歌われているくらいメジャーな曲なので、あらためて説明する必要はないのかもしれませんが、とりあえず簡単な紹介だけ。

THE BOOM

 島唄はTHE BOOMという4人組のロックバンドが1992年12月に世に送り出しました。

THE BOOMといえば『「島唄」=沖縄』というように沖縄をイメージする方もいますが、実はメンバー全員沖縄以外の出身者(4人中3人は山梨県出身)です。

また、曲風も時代によってイメージがガラリと変わるなど、ロックバンドのなかでは珍しいグループだったように当時は感じていました。

「島唄」は沖縄限定から全国に展開していく

「島唄」ははじめ沖縄限定でリリースされましたが、ちょうど同時期にNHKで放送されていた大河ドラマ「琉球の風」がヒットします。

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上の視聴率を見ても分かりますが、大河ドラマとしてはまずまずヒットしていたことが分かります。沖縄県の視聴率はおどろきですね。

こうした大河ドラマのヒットとタイミングがうまく重なったことによる「沖縄ブーム」にうまく乗っかり、本土にも「島唄」が広がっていくこととなりました。

翌年、本土版「島唄」として、島唄オリジナルヴァージョンがリリースされました。

私と「島唄」との出会い

先日買い物ついでに商店街をぶらぶら歩いていたときにどこからともなく聞こえてきたのがこの「島唄」でした。

「島唄」は私の音楽感を変えてくれた歌でもあります。

ここで少し私自身の「島唄」との出会いについて書きます。

初めての出会いは中学2年生のとき

中学2年生のときに友人にダビングしてもらったカセットテープに収録されていたのを聴いたのが最初でした。

カセットテープには全部で30曲くらい色々なアーティストの曲が入っていましたが、私はこの「島唄」の部分だけを何度も何度もそれこそテープが擦り切れるまで聴きまくりました。

実際、ダビングしてくれた友人に島唄だけが録音された60分のオリジナルテープを作ってもらい毎日のように聴いていました。

当時の私は「島唄」で歌われている歌詞の意味などは特に深く考えたことはありませんでした。

それよりも沖縄独特の音階の目新しさに惹かれ、そして懐かしくもある不思議な感覚に魅了されていました。

「島唄」が奏でる沖縄チックな不思議な響きに魅了された私は、このころから沖縄音楽に没頭し始めることとなります。

私にとっての「島唄」とは

「島唄」が奏でる不思議な沖縄調の音楽は私にとってとても心地の良い曲でした。曲の中に喜怒哀楽を感じられるようになるくらいには聴き込んでいたと思うのですが、「島唄」に込められた本当の意味について知るのは、それから30年後となります。

宮沢和史さんが朝日新聞に寄稿した記事を読んで

2005年8月、THE BOOMのボーカルである宮沢和史さんは、朝日新聞にこの「島唄」の創作秘話を寄稿しています。

寄稿されたその記事を読むと、「島唄」が楽しいだけの歌ではなく「戦争」についてふれた哀しい一面をもった歌であることが分かります。

「島唄」は、本当はたった一人のおばあさんに聴いてもらいたくて作った歌だ。91年冬、沖縄音楽にのめり込んでいたぼくは、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」を初めて訪れた。そこで「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんに出会い、本土決戦を引き延ばすための「捨て石」とされた激しい沖縄地上戦で大勢の住民が犠牲になったことを知った。

捕虜になることを恐れた肉親同士が互いに殺し合う。極限状況の話を聞くうちにぼくは、そんな事実も知らずに生きてきた無知な自分に怒りさえ覚えた。

資料館は自分があたかもガマ(自然洞窟)の中にいるような造りになっている。このような場所で集団自決した人々のことを思うと涙が止まらなかった。

だが、その資料館から一歩外に出ると、ウージ(さとうきび)が静かに風に揺れている。この対比を曲にしておばあさんに聴いてもらいたいと思った。

歌詞の中に、ガマの中で自決した2人を歌った部分がある。

「ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら」という下りだ。

「島唄」はレとラがない沖縄音階で作ったが、この部分は本土で使われている音階に戻した。2人は本土の犠牲になったのだから。

(It's Glorious voyageto24.exblog.jp 宮沢和史の旅する音楽その1「たったひとりのために」より引用

宮沢さんご本人も寄稿記事に書かれている部分ですが、当時中学生だった私がモヤモヤしていた部分もまさにこの歌詞のくだりでした。

ずっと沖縄の緩くも和やかな曲調から一変するこのくだりが当時からずっと違和感のようなものがありました。

ようやくその意味を知れたことで私の中にくすぶっていたモヤモヤがすぅーっと消えていくのと合わせて、同時に哀しい想いが身体を突き抜けていく感じがしました。

歌うことへの葛藤

宮沢和史さんは当時「島唄」を製作したものの、『本土出身のぼくがこの歌を歌ってもいいのだろうか』と悩みます。

その際、喜納昌吉さんから『音楽では魂までコピーしたらゆるされる』と背中をおしてくれたことで「島唄」を歌うことにつながり、そしてそこから世界中の人々に「島唄」が語り継がれるきっかけとなったわけです。

PVの衣装はもしかしたら死装束なのかもしれない

「島唄」のPVではボーカルの宮沢和史さんは、全身白装束で登場してきます。

当時中学生だった私は、大河ドラマの影響もあるのかもしれませんが、「沖縄の人ってこのような服装をしているのかー」と偏ったイメージを持っていた気がします。

しかし、「島唄」の意味を知るともしかしたらこれは白装束かも、と思いました。

つまり沖縄地上戦で亡くなった人たちと捉えこれから浄土へと旅立つのだという風にもとれます。

また、経帷子だとすると、沖縄地上戦で亡くなった人たちの極楽浄土を願っている、という風にもとれます。

本当の意味を知ったことで、色々な感情が頭の中に入ってくるのですが、こうした衣装を身につけて歌うことで宮沢さんご本人が『魂を込めて歌う』ことへの決意にようにも思えます。

「島唄」は哀しい歌ではなく平和を願う歌だ

こうして「島唄」の真の意味を知れたことで、30年にわたり私の中でくすぶりつづけてきたしこりが解けたわけです。

どこか不協和音というか違和感というか、前後の曲調と合わない気がすると感じていた部分の正体は、哀しい思いが込められていたからなんですね。

沖縄音階の曲調ではじまり、この少し哀しい思いを伝える曲調に変化したのち、バラード調のイメージに沖縄独特の合いの手である「イーヤーサーサー」が合わさりサビが展開されていきます。

哀しい思いという部分にだけ焦点を当てると、この歌は本土の犠牲にあった哀しい沖縄を歌っているともとれるのですが、「島唄」を全体を通してみると、「戦争を繰り返してはいけない」、「穏やかな平和が続いてほしい」という願いが込められた歌なんだなぁと自分の中で腹落ちしました。

歌詞の意味は分からないが、空前の「島唄」ブームに

島唄がリリースされてから10年後の2001年、アルゼンチンのマルチタレントであるアルフレド・カセーロ(Alfredo Casero)が現地にあるバーで流れていた「島唄」に感動し、日本語のままカバーしてCDをリリースします。これがまさかの空前の大ヒット。

その翌年、2002年になってアルゼンチンで「島唄」が空前の大ヒットしていることを宮沢和史さんは知ることとなりました。

「アルゼンチンに『島唄』を日本語で歌っている歌手がいる!」。レコーディングスタジオで作業していたぼくのもとに、スタッフが駆け込んできた。02年2月のことだ。

彼のパソコンには、巨漢の男性が力強い声で「島唄」を歌う様子が映っている。それがアルフレド・カセーロだった。

その後に届いた情報は、ぼくをさらに興奮させた。「島唄」は大ヒットし、現地の音楽祭で大賞まで受賞したというのだ。「会ってみたい」。02年4月、ぼくたはたまらず、ブエノスアイレスに向かった。

ホテルであった彼は、想像以上に大きかった。びっくりしていると、なぜか向こうも驚いている。「年下とは思わなかった」。歌声から、老人が来ると思い込んでいたのだという。

それでも気を取り直した様子で「部屋の隅に行こう」とぼくを誘う。2人きりになると、彼はすぐに「島唄」との出会いをまくりたてるように語り出した。「島唄」を耳にしたのはまったくの偶然だった。日系人が経営する現地の寿司店で耳にし、店に頼んで音楽をコピーしてもらって、自宅で何度も日本語の歌詞を練習したーーー。そして受賞したトロフィーを「君のものだ」と差し出してきた。体も心も大きな彼の気遣いに触れ、ぼくは「歌は言葉の違いを乗り越えられる」と実感した。

1週間の滞在は、彼のおかげで充実したものになった。お返しに、「島唄」が生まれた場所に彼を連れて行こう。ぼくはそう心に決めた。

(It's Glorious voyageto24.exblog.jp 宮沢和史の旅する音楽その8「アルゼンチンの友」より引用)

日本でも「島唄」ブーム再燃

1993年に「島唄」が国内で大ヒットした背景には、前述の通り大河ドラマによって「沖縄ブーム」が国内で起きたことです。

ちょうど良いタイミングに乗ることができた「島唄」も国内でミリオンセラーとなるヒット曲となりました。

そして、2002年に再度「島唄」が国内で大ブームとなりました。

その背景にあったのは、日韓ワールドカップが開催されたことと、出場国のひとつであるアルゼンチンがアルフレド・カセーロが歌う「SHIMAUTA」がチームの応援歌だったことです。

当時のサッカーファンの間でもなんでアルゼンチンの応援歌が「島唄」なのかきっと不思議に思った方も多いのではないでしょうか。

結果、「島唄」は国内での2度目の大ブームをすることとなりました。

そんなこともあって「島唄」を知っている人が多い理由の一つかもしれません。

歌い手によってガラリとかわる「島唄」

日韓ワールドカップでアルゼンチンの応援歌となった「SHIMAUTA」を歌ったアルフレド・カセーロさんですが、「島唄」と曲調は同じながらもカセーロさんの太い声がもたらす「SHIMAUTA」は体につきささるような感じでこれはまた聴いていて気持ちがいいです。

また、世界中の歌い手がカバーしているので、それぞれ聞き流していたらいつのまにか時間が経っていました。

かの有名なダイアナ・キングも「島唄」をカバーしています。

歌い手によって「島唄」がいろいろな島唄になっているのは聴いていて大変興味深いです。

まとめ

はじめて「島唄」が世に出てからまもなく30年が経とうとしていますが、現在では世界数十カ国でカバーされるほどになりました。

後年宮沢和史さんは「島唄」がどうして世界中に広まったのかと尋ねられた際に、『言葉や人種を超えて一人ひとりの心に響く”何か”があるのだとしたら音楽家としては最高の思いだ』と答えています。

「島唄」を作り出したときの葛藤を超え、魂を込めて歌ったことで30年経っても世界中で愛される名曲となっているのだなぁと思います。

私の音楽感を変えてくれた曲が「島唄」で良かった!と心から思っています。