私が今までやってきた仕事を振り返ってみて人手不足について考えてみた

こんにちは、のだめです。

 

先日新聞で、有効求人倍率が軒並み上昇しているという記事を見かけました。

運送業会に限らず、今ではどの業界でも人手不足は深刻化しています。

 

この人手不足の深刻化がいつ頃から実感出来るようになったのかを、自分の仕事を振り返ってみたいと思います。

 

初めてのバイトは引越しのアルバイト

1995年 バブルは崩壊していたが景気復調もあり派遣業を中心に仕事は結構あった 

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私がはじめてアルバイトをしたのは、引越しのバイト。

たしか、高校2年生の頃なので今から23年ほど昔のこと。

 

この頃、引越しの求人はフリーターを中心に募集がかかることが多かった気がします。高校生が出来る仕事ではなかったのですが、春休みだったか休暇期間中の期間限定バイトだったかで、応募してみたら受かってしまったので、数日働きました。

 

当時バイトした時は、エアマックスNIKEが販売していたスニーカー)がめちゃめちゃ流行っていて、あまりの激レアっぷりにエアマックス狩りという、このスニーカーを履いている人を襲う事件が多発しました。

 

私も、流行っていたエアマックスが欲しくてバイトをしたのだと思います。

 結局スニーカーは変えなくて、G-SHOCKを買いました。

 

当時、引越しのバイトはモノを扱うような扱われ方で、とにかく重たいものを持たされまくりました。社員はトラックで待機とかありましたからね。

 

引越しの依頼者からたまにもらえるご祝儀(お食事代です、どうぞと諭吉さんが渡されたこともあった)は、私たちバイトに回って来ることはなく、おいしいところは社員さんが受け取っていました。

 

そういうわけで、引越しのバイトはとてもきついものでしたが、1日のバイト代が9500円とかもらえるので、高校生の私にとっては魅力的な金額で春休みを丸々引越しのバイトに費やしました。10万円ほど貯まりました。

 

高校生の頃は、学校まで片道1時間半、そして部活もやっていたので毎日バイトは時間的に厳しくて、休みを利用して働ける引越しの仕事は、うってつけでした。

 

18歳以上の募集がかかっている中で、高校生の私が普通に働けたので、この頃もある意味人が足りない状態だったのかもしれません。

 

浪人時代、倉庫内作業を経験

1997年 就職氷河期と言われる時代に突入
浪人生活で就職についてあまり意識はしていなかったが、社会的に見ると一時期持ち直した就職率が一気に低迷した年に当たるらしい

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高校を卒業して、受験浪人生のときは勉強一筋で、勉強漬けの日々。

予備校まで自転車で40分かけて通うのが辛くて、原付が欲しくなります。

 

予備校は朝9時から夕方17時まであったので、原付を買うために18時から20時くらいまでの2時間程働けるバイトを探していたら、たまたま見つけたのが倉庫内作業。

 

このバイトは、新聞の折り込み広告に入っていた求人募集を見て電話して応募。

 

時給はたしか900円くらい。1日2時間働いて1800円。原付を買うために3ヶ月ほど働きました。無事原付を無事購入できたので退社。

 

この頃の倉庫内作業は主に派遣会社を通して派遣されたスタッフがメインでした。

 

派遣スタッフは、直接倉庫会社に雇われたスタッフよりもひどい扱いを受けていた気がします。色々な名目で給料からお金が減額され、自分たちよりも少し低い時給で働いているスタッフもいました。

 

派遣スタッフの問題は、後年社会問題にもなりましたね。グッドウィルとかフルキャストとか。この頃は、この2社が最大手だったと思います。

 

私は、倉庫会社を辞めた後、大学に入学するまでにもう一つバイトをしました。そのバイトも倉庫内作業。

 

中学自体の知り合いの先輩が働いている倉庫会社で真夏。コンテナ内の荷物を倉庫に卸す仕事。過酷すぎて人が集まらないと聞き、夏場限定で働きました。

 

時給は破格の3500円。炎天下の中倉庫に横付けされたコンテナは猛烈に暑く1時間ごとに外に出ないと熱射病になるほどの暑さ。

 

これが夏休みの期間中やりました。あまりの高時給につられ予備校のスケジュールを立て直したくらいおいしいバイトでした。2時間半で9000円は嬉しかった記憶があります。

 

当時の倉庫内作業は、引越しと同じように、つらい・きつい・苦しいの三拍子が揃った仕事でしたが、引越しほどメジャーな仕事ではなく、高時給にしてもなかなか人が集まらないなど、わりと人手には困っていた感がありました。

 

大学入学後、最初の仕事はレストランの厨房。初の飲食業界。

1999年 就職氷河期から脱し始め、景気が持ち直してきた矢先
個人的に人手が足りないとはまだまだ実感せず

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無事に大学に入学したころに、自宅から徒歩5分のところにレストランがオープンすることになり、スタッフ募集があったので応募。

 

パン屋とレストランが併設されたお店。レストランの厨房の仕事でハンバーグを作っていました。時給は850円位。18時〜23時の5時間。平日4日くらいの勤務。

 

オープニングスタッフとして、開店1ヶ月前からトレーニングも行い、トレーニング中は780円とかそんな感じでした。

 

当時の実家周辺はまだ田舎風景の残るような場所だったので、飲食店が出来ること自体が珍しく、あまり時給が高くないにも関わらず、スタッフはすぐに集まりました。

 

大学まで片道1時間半かけて通っていたので、だんだんと18時のバイトに向けて急いで帰るのが嫌になってきていたのと、バイト先で起こしたトラブルが原因で3ヶ月ほどで辞めることに。

 

当時スタッフ内で流行っていたいたずらがありました。パン工房とレストランの厨房の間に巨大な冷凍庫が設置されていて、冷凍庫内を通って行き来できる厨房内。

 

その冷凍庫内に、コース料理のデザートで使うアイスクリームを大量に保管していたのですが、スタッフが冷凍庫内を行き来する度にアイスを食べていました。

 自分も同じように食べていたのですが不運にも食べている現場を主任に見つかり、クビに。

 

バイト仲間からは「不運だったね」と笑われました。その後もこのアイスクリームが原因でバイトをクビになるスタッフが続出したため、アイスクリームはコース料理のデザートから除外されました。

 

ラーメン屋で働き始めた

1999年ー2000年 非正規雇用が問題になり始めた頃
世の中不景気不景気と叫ばれてはいたが、バイトレベルでは仕事は色々選べた時代

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レストランをクビになった私が次にアルバイトをしたのは同じ飲食業界。ラーメン屋。

 

大学が終わり帰宅してからもしっかり働ける24時間のラーメン屋。20時〜深夜3時位までの7時間。時給は900円でした。深夜時給はありませんでしたが、まかないで創作ラーメンを作って食べれるところがよかったです。

 

国道沿いの高速インターの手前にあるこのラーメン店は立地がよかったのもあり、深夜になっても人が絶えることはなく、レストランのようなズルは出来ませんでしたが、仕事を覚えるほどしっかりと新しい仕事を勉強させてくれる会社だったので、楽しかった。

 

働きやすい時間帯ということもあり、大学入学後2年近く続きましたが辞めるまで時給は上がりませんでした。

やる仕事は麺上げ以外は全てを任されていたので、わりと充実したアルバイト生活だったのかも。

 

高校生メインのスタッフ構成だったため、人手にはあまり困っておらず、私が辞めるまで求人を出すと半日で人が集まるほどでした。なので、時給を高く設定しなくても人が集まりました。

 

のだめ、先生になる。

2001年ー2004年 就職氷河期からの脱却 しばらく売り手市場に転換
塾で稼ぎすぎて親の扶養から外れた頃。講師まっしぐらで世間事情には疎かった

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ラーメン屋を辞めるきっかけになったのが、大学の知り合いに頼まれてはじめた塾の講師。あまりの激務でなり手がいない。やってみないか、と言われたのと「時給2500円だよ」という高時給につられて入社。

 

勉強を教えるのは小学生と中学生。

 

はなくそほじってても出来るじゃんか、とはじめはたかをくくっていたのですが、中学受験を目指す小学生の勉強の密度の濃さにびっくりしました。

 

「え・・・?知らないんだけど・・・」っていうくらい、小学生の勉強が難しいことをこのとき初めて知ることになりました。

 

小学生の生徒から見た塾の講師は、なんでも知ってる先生なので、質問されたことは即座に答える必要がありました。

 

「分からない先生は勉強を教えないでください」という、口にはしないけれど、目で伝えてくるので相当なプレッシャーでした。

 

目は口ほどに物を言うとはこのことか、と実感しました。

 

結局、授業のための予習と、講義の練習、そして知らないことについての勉強と、授業以外に費やす時間がものすごく増えたため、時給は2500円でしたが前後の時間をかなり使っていたので、仕事の前後の時間を合わせて考えてみると900円くらいになっていたかもしれません。

 

精神的にきつかった塾の講師ですが、教え子が目標にしていた学校に合格したと報告された時は、一緒に涙しました。

 

その感動が忘れられず、結局大学を辞めるまでこの仕事は続きました。

 

私がこの仕事を辞めるまで数人の講師が入ってきましたが、みんなひと月持たずにやめていきました。

 

私が辞めた後も、講師が集まらなかったため、個別指導に切り替え、数年後閉校に。

生徒が集まらなくて閉校ならまだ諦めもつきますが、講師が集まらなくて閉校はやるせない気持ちになりました。

 

塾講師は、この頃から人が集まらない風潮が始まっていたのかもしれません。

 

大学退学後にはじめたのがパチンコ店

2004年ー2017年 業種により人手需供給のバランスが崩れ始める
2008年ー2012年 リーマンショックの影響で再度就職氷河期
2011年 震災後ー パチンコ店に応募が来なくなることで、労働者が減ったことを実感

求人⏫ 労働者⤵️

大学を辞めることになり、塾の講師も辞めたあと、当時ぱちんこが好きだったこともあり、パチンコ店で働き始めました。

 

当ブログでもいくつかパチンコ店の記事を書いていますが、飲食店や普通のサービス業では味わえない新鮮な業界だと思います。

 

巷で思われているようなマイナスのイメージが拭えない業界ではありますが、働いてみると意外と楽しかったのもこの業界です。

 

結局、この会社で14年近く働くことになりました。

 

仕事でパチンコ店にいたため、いつからかプライベートではパチンコをしなくなり、無事にパチンコを辞めることができました。

 

この仕事に就いたおかげで、自分の人生観を変えてくれる人に出会えたことが一番よかったと思っています。

 

パチンコ業界で働き始めたころは求人を出せばすぐに人が集まる時代だったので、人手にはあまり困っていませんでしたが、あまり普通の人が応募してくることはありませんでした。

 

何かしらの生活苦を抱えている人とか知られたくない過去を背負った人とか、そういう人たちばかり。

 

パチンコ業界で人手不足を実感として感じ始めたのは2011年の大地震以後から。

計画停電やなにやらでいろいろ叩かれた時期ということもあり、求人を出していても、昔のように応募の電話がひっきりなしにかかってくることが少なくなりました。

 

また、ちょうどこの頃から社会がブラック企業とかそういう会社のマイナス面についてシビアになりつつあったように思います。

 

会社の求人への方針は、2011年以前はたくさんの応募から人を選んで採用の判断をしていましたが、2012〜14年ごろになると応募してきた人がいたら、まず採用してみるというように方針が変わりました。

 

応募自体がかなり少なくなってきていたので、まずは働いてもらってみて、それからそのスタッフの適性をみるようになっていきました。

 

2015年〜2016年に入ると、求人を出しても応募は月に1〜2人に激減し、最低人員数を割り込むこととなり、最低人員で回せるように設備投資を行うこととなりました。

 

そんな状態が続き、体調を崩した私も長く務めた会社を退職することに。

 

私が退社した後も求人をしばらくは出していたようですが、求人掲載にかけた費用に対して応募が見込めないことから、経費削減のため求人掲載を取りやめることとなり、現在は求人を出していないとのこと。

 

同じ地域のパチンコ店が軒並み時給を高く設定して求人を続けている中で、時給1000円で求人は、人が来るはずありません。求人募集をやめたのはある意味正解だったのかもしれません。

 

現在も求人は出していないようです。

 

現在、運送業に勤務しています。

2017年ー どの業界でも人がいないと深刻化

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そして、パチンコ店をやめた後、ひょんなことから今の会社に採用され、私は運送会社での役員という形で勤務することに。

勤務といってもトラブル時以外は事務所で勉強なので、これを働いているといえるのかは微妙。

 

ですが、お給料は今の会社が一番高いので、転職の仕方としては失敗はしていないのかも。仕事の充実感で見ればパチンコ店で働いていた時の方がありますけどね。

 現在はトラブル時に仕事があるため、現場に立ち会う時はかなり緊張します。

 

今の会社も求人は出していますが、他社同様に新人発掘には苦労しています。

先日、ひとり20代の若い子の入社が決まった時は万歳三唱があったとか。。

 

それくらい、今、運送業界は人手不足で悩んでいます。

 

運ぶものがたくさんあるけれど、人がいない

トラブルに立ち会ったりすると、現場のドライバーさんたちの生の声を聞きますが、やはり勤務体制はかなりきついようです。

 

ですが、物を運ぶ仕事というのは無くならないので、これからも必要とされる仕事です。人手不足を解消する即効薬はありませんので、試行錯誤して対応していかなくてはいけないですね。

 

今日は、自分の今まで働いてきた仕事を振り返っての人手不足について考えてみました。

深刻化する人手不足に効く即効薬はありませんが、今日はこんな言葉を添えて締めくくりたいと思います。

 

”逆境には必ずそれよりも大きな報酬の種が隠されているものだ”(ナポレオン)

 

それでは、今日も素敵な1日になりますように、のだめでした。