【雑記】東京大学訪問、父親が語る学生時代と両親の馴れ初めの昔話 その二。

 

おはようございます、のだめです。

 

昨日、父親の大学時代の昔話について書きましたが、今日はその続きです。

途中からの方は、是非こちらもご覧になって下さい。

heyaganodame.hatenablog.com

 

農学部に進級した父親ですが、入学前の1968年に起きた安田講堂事件のおかげで、大学入学後も、安田講堂の周りにはバリケードが張られ、結局卒業するまで中を見ることは叶いませんでした。

 

そして、7月25日から数日間、一般開放されるという情報が入り、私を誘って東大にやってきたわけです。

 

50年の年月を経て、初めて父は安田講堂の中に足を踏み入れます。

 

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二人して

「想像していたよりも大きいんだね」と。

 

2014年に寄付を募って、安田講堂の大改修が行われました。

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1階に700席、2階に400席の計1100席が設けられた大講堂。

 

ちょっと見た感じ、演劇なんかで見るような感じの講堂でした。

 

現在、安田講堂は、大学の教育・研究に関する会合や式典に主に利用され、それ以外で内部が公開されることはあまり無くて、今回のような一般開放は珍しいイベントのため、良い経験が出来ました。

 

そういうわけで、内部の撮影をブログに載せたらまずいなどありましたら、コメントいただけると助かります。

 

2014年の大改修は大勢の寄付によって賄われているのですが、その寄付した方々がどういった方達なのか、ということが分かるように、名前が至る所に彫られていました。

 

写真を見てみると少し分かりにくいのですが、それぞれの椅子の上部に、小さなプレートがついています。そこにも寄付された方の名前が彫られています。

 

「この椅子はワシが寄付したんじゃー」とか

 

子供を連れてきて、ちょっとした自慢も出来るかもしれませんね 笑

 

それ以外にも、講堂を出て、通路に行くと通路の壁にもプレートがあり、そこにも寄付した人の名前が彫られています。

 

プレートが大きくなるに連れて、寄付金も大きくなるそうで、安田講堂の中の壁面にデカデカと名前が乗っている会社名や、人名も結構ありました。プレートの大きいものは寄付金1億円ですって。びっくりです。

 

「中を見るのに50年かかったけど、こうして見てみると、思い入れのある母校、その安田講堂に自分の名前が刻まれるのは一つの財産だよなぁ」と父は頷きながら寄付を考えているようでした。

 

そんな初の安田講堂を楽しんだ後、大学内を回りながら、父がキャンパスを案内してくれました。

 

50年ぶりとはいえ、昔と配置がほとんど変わっていないようで、迷子になることなく、

 

「ここは農学部のメインの学生棟でその先に確か研究棟があったはず・・・あったあった」

 

と、昔の記憶を辿りながら、キャンパス内を案内していると、

 

「そういえば、昔、大学4年の卒業を控えた頃に、母さんをここに連れてきたことがあったんだよ」

 

と、父親の学生時代の話から両親の馴れ初めの話になります。この話は私自身、初めて聞く話だったので、びっくりしました。

 

「母さんとはお見合いだったんだけど、初めてお見合いで二人が会って、二人とも緊張している中、どんなことを話したらいいかも分からないながら、母さんと一緒に大学内を歩きながら散歩したのを覚えてるよ」

 

「その後、ホテルの最上階のレストランに連れて行って、東京を一望出来る夜景を見つつ、そのままプロポーズしたんだ」

 

へぇぇぇぇ、知らなかった。

 

「プロポーズの言葉はどんなだったの?」と聞くと

 

「へへへ、内緒」

 

と、一番重要なところは教えてくれませんでしたが、父も昔を思い出しているのか、ニコニコしながら話してくれました。

 

普段は絶対こんなことを話す人では無いし、私から聞くこともないので、父からこういう話が聞けたことはとても貴重な体験でした。

 

そして、

 

「就職活動の時ね、実は就職活動してないんだよ、俺」

 

と意外な話も。

 

当時は東大生というだけで、引く手数多の時代、企業が開催する食事会にもたくさん誘いがあったそうで、

 

「当時仲が良かった、ボート部の部長がいてね、そいつに企業の食事会にだけ行って、食費を浮かそうぜ」と持ちかけられたそうで、実家が裕福ではなかったこともあり、

 

「いいね、行こう行こう」と、就職説明会行脚ではなく、食事だけ食べに行くツアーに日々いろいろな企業を回る予定だったそうです。

 

ですが、食事ツアーの1社目に行った会社の食事会で父の就職活動は終わることとなりました。

 

1社目の食事会に行った二人。とある商社が開催する食事会だったのですが、その日は文系学部の人を対象とした食事会だったのでした。

 

父と、ボート部の部長は、文系ではなく、農学部と工学部。

 

食事をすることが目的だった父とその友人はそんなことも知らずに

 

企業の名簿記入欄に

 

農学部、工学部」と記入。

 

それを見た商社の人事担当が、文系学部の食事会なのに、理系学部の学生が参加したことで、逆に目立ってしまったのか

 

「『なんて、意識が高い学生なんだ』と人事部長が勘違いしちゃってさ、理学系の食事会は翌週だったんだけど、待ちきれずに説明会に聞きにきた熱心な学生だと思ったんだろうね」と父は笑いながら言います。

 

本当は食事を食べに来ただけなのですが、そんなことは言えず。そして人事部長も勘違いしたまま

 

『そんな意識の高い学生はなんとしてもウチの会社に来てもらいたい』ととりあえず面接にだけでも来てくれないかということになり。

 

トントン拍子で話が進んでいく中で、断るわけにもいかず、

 

「せっかくだし、面接だけでも行ってみるか」と、

 

面接に行くと、面接官の一人が、当時よく一緒に遊んでいた麻雀仲間で一つ上の先輩だったのでした。

 

大学は違っていたのですが、麻雀仲間として他大学とも親交のあった父は、苗字が珍しいこともあり(沖縄の苗字なので、本州では私自身も親戚以外で見たことはない)、その先輩も良く覚えていて

 

「他の会社を受けないなら、今ここで合格にする」と言われ、即答で決めたそうです。

 

珍しい苗字ということで覚えていてくれたということもありますが、色々な人と親交を持つことで、自分の知らないところで意外に結構繋がっている、ということがある、というのは常日頃父親が言っていることでもあります。

 

どんなところで人と繋がるから分からないから、自分の世界に閉じこもるのではなく、自分から知らない世界に飛び込んでいけ、とよく私に言ってきます。

 

そんなつながりから、特に就職活動もすることもなく、企業の食事会に出かけたら就職が決まってしまった、という父親の就職活動の裏話。

 

学生時代から40数年が経ち、一昨年父親も現役を引退し、40年近くサラリーマン人生を勤め上げましたが、

 

定年退社した翌年には自分で会社を立ち上げ、今も元気に働いています。

 

「40年近く働いてきてさ、やっと定年で退職したのに、まだ働くの?」と私はよく父親に言うのですが、

 

「定年後に会社を作って、まだ働いて、と母さんも同じこというけど、自分としては今は働いているという感覚はないんだよね。好きなことをして生きている、そんな感じ」

 

好きなことして生きていく

 

どこかで聞いたことあるようなフレーズですが、まさに父親を見ていると、その言葉が本当にしっくりきます。

 

好きなことして、生きているな、と。

 

よく定年退職したら趣味に没頭して、第二の人生を歩んでいく、そういうイメージがあります。

 

定年まで働きづめで、定年退職したら仕事以外にやることがなく、無趣味だった自分に気がつく、そういう人も中にはいるのかもしれませんが、父を見ていると、定年後に立ち上げた自分の会社を運営していくことが、楽しくて仕方がないように感じます。

 

趣味=仕事、というのはぱっと見あまり楽しそうには思えないのですが、父親の今の生活を見ていると、本当に毎日が楽しそうなので、こういう生き方もあるんだなぁと思います。

 

40数年間、商社で積み上げてきた広い人脈をフルに使いながら、現在コンサルタント事業会社を経営しています。

 

定年退社したらやりたかったという、介護事業。

今後日本は介護職が不足することは以前から分かってはいましたが、介護職の仕事環境が改善されないまま、超高齢社会に突入した日本。

 

いま、父は超高齢社会を迎えた日本に介護職専門の外国人労働者を迎え入れる人材育成事業を中国や東南アジアと交渉をしてみたり、

 

数年前から、中国人が日本に爆買いしに来たのをみて、

 

「これから中国は爆買いから医療にシフトしていくな」と先読みして、医療ツアーを計画して、その事業を展開してみたり

 

「美味しいワインが飲みたい」と言ったかと思えば、ワインの輸入業者とタッグを組んで、まだ日本ではほとんど知られていないワインの輸入に携わる事業を展開し始めたり、

 

「日本の育児品は中国で大ヒット間違いなし!」と言ったかと思えば、日本の卸問屋と交渉して、赤ちゃん用品を中国に輸出してみたり

 

「あ、これは面白そう」と思ったことは、思ったままにはしないで実際に行動してみないと気が済まないようで、色々手がけています。

 

現在は、とある演劇家が中国に舞台進出したいという話を聞きつけ、即交渉して、演劇家の会社を買い取ってマネジメントを始めました。

 

演劇科の会社を買い取って新事業を始めたときは「手当たり次第なんでもやるよなー」と思ったのですが、名前を聞いてみると、私でも知っているほどの演劇家の方だったので、結構有名な人だと思います。

 

そういう色々な方面に手を出してやっているように見えるけれど、一貫しているのは、

 

面白いことが出来るかどうか、ということ。

 

サラリーマンとして働いていた頃は、仕事だから嫌なこと、やりたくないことも仕事としてやっていたけれど、今は好きなことだけできるから、仕事じゃなくて趣味に近い、と。

 

そんな父を見ていると、学生の頃から、父親の人としての軸はあまり変わってなくて、自分の本当にやりたいことをやる、という思いと

 

どんなところで人と人が繋がってるか分からないので、事業も色々な方面に手を出してみる、という行動力

 

私が去年まで働いていた時は、仕事柄父親と食事をしたり、どこかに出かけるなんてことはほぼ無かったのですが、

 

私が転職して、わりと時間に融通が効くようになったことで、毎月2回は父親とどこかに出かけたり、父親と話をしたりする機会が増えました。

 

今までは、お互いメールやLINEも伝言程度しかしなかったのですが、

 

「来月、宇都宮に行くからおいでよ」とか

 

「岡山に出張のとき、ついでに旅行に行こう」とか結構頻繁にお誘いのメールがきます。

 

私が、今の仕事で、どういうことをしたら良いのか分からない、という話をしても

 

今まで不自由だったんだから、その分の帳尻合わせとして今自由にさせてもらってると思って、これまで出来なかったことをやればいいじゃないかと言ってくれます。

 

会社として、何かしてもらいたいとかお前の使い道がみつかったら何かしら言ってくるだろうよ。

 

それがいつ来るかは分からないけれど、今のお前の時間は今しか使えないんだから、無駄にすることだけはするなよ、と言ってくれます。

 

そんなアドバイスをもらったりしているので、私も遊んだりせず、資格をとったり勉強したりと出来なかったことを日々やれているのかもしれません。

 

今まで父親とそういう濃い時間を過ごすことが無かった分、今こうして毎月どこかに一緒に出掛けたりできるのは、とても貴重な時間でもあります。

 

いずれは、父親と一緒に仕事が出来るようになれたらいいなぁと思うのでした。

 

今日も素敵な1日になりますように、のだめでした。