【雑記】東京大学訪問、父親が語る学生時代と両親の馴れ初めの昔話 その一。

こんにちは、のだめです。

 

昨日、父親から

 

「のだめちゃん、今日どうせ暇でしょ?これから東大に行こうよ」

 

と連絡がありました。

 

どうせは余計ですが、暇なのは事実なので(笑)午後から東京に行くことにしました。

 

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東大の赤門前が待ち合わせ場所だったのですが、なんだか時代を感じます。

 

待ち合わせよりも少し遅れて父親と合流。

 

「いやぁ、懐かしいね。我が母校だよ、のだめちゃん」

 

東京大学は父親の母校です。

 

地域の景観はすっかり変わりましたが、大学の施設やつくりはほとんど昔と変わらないと言っていました。

 

大学の卒業生たちが作るOB会のメールで、25日から安田講堂が一般開放されて、中に入れるイベントが開催されるようで、どうしても見にいきたかったそうです。

 

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安田講堂の前から、撮影。

 

今から50年前の1968年に、この安田講堂を舞台にした、東大紛争、安田講堂事件がおきました。

 

安田講堂事件については、その事件の名前と大学と学生との間で起きた学生運動といったくらいの知識しかありませんでした。

 

詳細については、下記の記事が分かりやすく説明しているので、ご参考までに。

uitanlog.com

 

この事件が起きた年、父親は高校三年生。受験生でした。

 

この事件の影響で翌年の東大入試が無くなり、どうしても東大に入学したかった父は、浪人を選択したそうです。

 

当時の東大は、日本のトップレベルの学校(父親曰く、当時は世界的に見てもトップレベルの大学として知られていたそうですが、現在は全世界のTOP10から外れてしまって、とても残念だと言っていました)だったとのこと。

 

この大学に入れば、志の高い人たちとの出会いや、一般では触れられない最先端の学問を学べると期待していた父は、浪人となりましたが、翌年の1969年も入学試験は無くなりました。

 

東大の入試が無くなったことで1969年の入試事情は、東大にもともと入れる学力のあった学生が、慶応や早稲田など、ランクを落として、散らばった年なので、例年よりも競争率が跳ね上がったそうです。

 

そんな中で、父は、芝浦工業大学を滑り止めで合格していましたが、東大の魅力を天秤にかけたときに、工業大学は合格しているけど、やはり自分は東大に行きたいと思いました。

 

当時、父親の実家はあまり裕福な家庭では無かったそうなので、そんな家庭の事情もあり2浪をするのは、親に申し訳ないと言っていました。

 

ですが、父親の父が(私から見て祖父ですね)、

 

「滑り止めの大学に行って、お前は満足しているのか?本当に学びたいところはそこなのか」

 

と言ったそうです。

 

その言葉で、2浪を決意した父は、その年猛勉強をして、翌年の東大受験に照準を合わせます。

 

「東大受験の前に、早稲田と慶応の試験があってさ、どっちも合格してたのよ」

 

「だけど、どっちも東大の発表まで、入学金を払わないと入学出来ない日程になっててさ」

 

当時、1浪のときには、早稲田にも慶応にも合格しなかったので、2浪目の受験でどちらも合格していた時は、父親の両親、親戚一同で祝賀会が開かれたほどみんなから祝福されたそうです。

 

「早稲田と慶応だったら、慶応かな、と思ったんだけど、慶応の入学金が100万でさ・・・あれは親に申し訳ないことをした」

 

と。大学試験に合格して、自分を含め、親、親戚共々歓喜に沸いたけれど、100万円は当時の家の事情では、相当な大金でした。

 

それでも、東大に落ちたら行くところが無くなってしまうので、慶応に100万円を収めました。

 

その数日後、東大の入学試験の合格発表の日。

 

この日を振り返って、父親は、

 

「合格発表の日、本当は人生で一番記憶に残る日になるはずだったんだけどさ、親戚のおじさんがねぇ・・・やらかしちゃって」

 

父親の受験を見守っていた親戚のおじさんが、父親よりも先に合格発表を見に行ってしまい、

 

父親が合格発表を見に行こうと、家を出ようとしたときに電話がかかってきて

 

「やったああああああ!合格おめでとう!!!!!」

 

と親戚のおじさんから歓喜の電話。

 

人生最大の出来事になるはずだったあの合格発表は、見事に親戚のおじさんに美味しいところを全て持っていかれたと、当時を振り返って、思い出し笑いしていました。

 

「発表の掲示板をみる前からもう合格ってわかっているから、あまり感動が無くてね、掲示板見ても、あ、載ってる」で終わってしまい、感動が薄れてしまったとのことでした。

 

ですが、東大に合格したことはその日のうちに両親、親戚、近所に知れ渡り、皆から祝福されたと言っていました。

 

「東大に合格して何が一番よかったかって、学費がすごいんだよ。慶応は入学金100万なのに、東大は入学金2万だよ? 学費だって慶応は年間200万なのに、東大は8万円 これで親孝行出来ると思ったよ」

 

と、言っていました。慶応に入れた100万は惜しかったけれど、それ以上の孝行が出来たと、懐かしんでました。

 

大学入試といえば、入試の時点で、学部や学科を希望してその学部や学科ごとに入試をするのが普通だと思っていたのですが、

 

当時は、文系理系の大まかな分類しかされておらず、入学後の2年間の学業の成績で、3年次から学部が決定する、という決め方だったそうです。

 

「へぇ、今とは違うんだね」

 

そこに関しては、私の思っていたシステムとは違っていたので意外でした。

 

父親は

 

「もうね、大学入試で一生分の勉強をした、と言えるくらい燃え尽きちゃってねw 大学に入ってからは遊びまくったせいで、学部専攻のとき、入れる学部は農学部しか残ってなかったんだよねw」と。

 

ですが、農学部に学部決定することになったのでした。

 

ちょっとこの話は長くなりそうなので、今日はこの辺で。

明日、続きを書きます。

 

それでは、今日も素敵な1日になりますように、のだめでした。